選択肢はひとつだけ(遼×珠紀)

ふさふさした柔らかい毛並みに、触れた肌で感じる温かな体温。
屈み込んでいた身体の重心を前方に傾けて、そっと優しくその身体を抱きかかえる。
確かにそこには自分とは違う別の命があった…。



「何してるんだ?」

自分に掛けられた声。
その方向を振り向いて珠紀が声を発するより早く、腕の中にいる猫がその声に答えるかのように「にゃあ」と一声鳴いた。
その行動にふふっと微笑んで、猫の背中をそっと優しく撫でる。
茶色と黒の縞模様。首輪は付けられてはいないが、どこか人懐っこいから野良猫ではなくてこの村のどこかで飼われている猫かもしれない。
警戒心は全く見えず、安心しきって身を委ねてくれているのが何とも可愛らしい。
「この子、かわいいでしょ?遼も撫でてみる?」
そう、遼に誘いを掛けてみたところで珠紀の腿の上からするりと地面に降り立った猫。
頭だけ動かして遼の方をその大きくて丸い瞳で一瞥してからすたすたと歩いて行ってしまった。
その何とも言えない不思議な行動を訝しく思いながら、猫が歩いて行く後ろ姿を見つめているとぴたりとその場に立ち止まって振り返り「にゃあ」と鳴いた。
まるで珠紀に自分と遊んでくれた感謝の気持ちを込めて別れの挨拶を言うかのようだった。
そして垣根の間へと入って姿がすっかり見えなくなった。

「今の猫、ただの猫じゃないな…」

珠紀と共に、その猫の行動を見ていた遼がそうぼそりと呟く。
「え?」
座り込んでいたため、制服のスカートの裾に付いてしまった砂をぱたぱたと叩き落としながら立ち上がった珠紀が尋ねる。
多少先程の猫の毛が付いてしまっているようにも思うが、特に気にはならなかった。
それに少しの毛でも気になってしまうとしたらあんなに猫とじゃれあいはしなかっただろう。
そう、確かに時間としては数分だったかもしれないが、遼があの猫を見た時間よりは長く一緒にいたはず。
それなのにあの猫と遊んでいる間、自分は特に変な気配は感じなかった。
ただ遼を視界に入れてすぐにどこかへ行ってしまったり、別れ際の挨拶をするかのように鳴いたりした行動は不思議なものだったと思う。
「確かに去って行くときは少し不思議な感じはしたけど…」
「あの猫、おそらく何か力を持っている。まぁ、悪い奴には見えなかったが…」
まだ何を言おうとしているのか要領を得ない様子の珠紀に付け加えて説明してくれる遼。
ぶっきらぼうな言い方は相変わらずだが、言い方は全く気にならず、説明してくれる優しさが素直に嬉しかった。

「ちから、ね…」

何か力を持っている猫、という言葉を聞いてぱっと頭の中に浮かんだのは綿津見村に出向いた際に出会った二匹の猫ちゃんたち。
加奈、沙那という名前で珠洲ちゃんに仕える使い魔で、性格は正反対だったがどちらも根はしっかりしていて、そして何より可愛かった。
あの二匹が猫の姿をしているのを滞在しているときは見かけることなく、ずっと人の姿をしたままだったが、元々の姿に戻ることもできるのだろうと思う。
そんな彼女達のような力を先程の猫も持っていたのだろうか。
ただ加奈や沙那に感じたような気配はなかったから彼女達よりも力は弱いのか、それとも、それを身の内に抑えていたのかもしれない。
まぁ、どちらにせよ、何らかの力を持っていることには変わりはないらしい。
「綿津見村にいた、猫ちゃんたちを思い出すよね…」
綿津見村から季封村へと帰ってきてからばたばたと慌しく日々を過ごしてもうあっという間に数ヶ月が経ってしまっている。
とはいっても、鮮明に記憶に思い出として残っていてつい先週のことのようにも感じられる。
ただ季節が暑い夏から一転して、徐々に寒くなってきているだけにもうそんなに前のことなのかと実感して懐かしい気持ちが自然と込み上げてくる。
冬休みに綿津見村へと遊びに出掛ける時間があるかは微妙なところだが、卒業した後にでもまとまった時間が取れればまた行きたいものだ。
「あ?あぁ、あの二股猫か…」
そんな珠紀とは違ってそっけない態度の遼。
懐かしく思っていないわけではないだろうが、何かあるのかなと思った珠紀はもう一つ綿津見村での出来事を思い出して微笑みながら言う。

「今度は逃げないでくれるといいよね」

確か珠洲の家にお邪魔して挨拶した際に、加奈と沙那が遼と話した途端に逃げて行ってしまったことがあったはずだ。
「狛犬様」、「イヌ様」と言って慌ててその場から離れてしまってから、以後綿津見村を後にするまで結局なかなか距離が縮まらないままだった。
遼の方は特に意識していないようだが、猫としての本質が彼女たちにそういった態度を取らせてしまうのかもしれない。
別に怖くないし、危害は加えないから大丈夫だよと遼には内緒でこっそりと説明してみたが警戒心は抜けていなかったから、今度行ったときは少しでも距離が縮まったらいいなと願う。

そう考えると、逃げていってしまったわけではないが、もしかしたら先程の猫の態度もその辺りが関係しているのかもしれない。
特別な力があろうとなかろうと何かを察する能力は長けているだろうし、そう思えば遼の中に流れる血を察して、猫の方から離れてしまうことの方が多いのだろうか。
そう思った結果が先程の一言だった。


「まぁ、猫が逃げて行ったところでどうとも思わないがな。それより、ほらよ」
強がっちゃって、という言葉をぐっと押し止めて、遼が手渡してくれた缶を受け取る。
「緑茶」と書かれているその缶はとてもあたたかく、両手で包んで冷えた指先を温める。
まだ手袋は必要ないかなと家に置いてきてしまった今日に限って急激に冷え込んだ。
マフラーはしているものの、やはり外気にさらされている部分はとても寒い。
なんとか手を温めようとしていたら、いきなり「そこで待ってろ」とだけ言い残してどこかに行ってしまった遼。
その間にあの猫と出会って彼が帰ってくるのを待ちながら遊んでいたわけだが、なるほど、これを買いに行っていてくれていたのか。
「ありがとう…」
「べつに」
えへへと思わず頬が緩んでしまう。
開けて飲んでしまうには勿体無い気がして、もう少しだけ開けずに握ったまま暖を取ることにする。
と、遼の手には缶が握られていないことに気付く。
まさか手袋をしているはずもなく、そのまま変わらず外気にさらされていた。
「遼の分は買ってきてないの?」
「あぁ、べつに寒くはないしな」
「ふーん。そうなの?……本当に?」
「あぁ」
風の冷たさなどなんでもないかのようにそのまますたすたと歩いていく隣の彼。
話している間もずっと缶を握っていた珠紀の手はすっかりほかほかと温まっていた。
「でも、こうした方が温かいよ」
そう言って、缶を片手で握り直して空いた方の手で彼の手を握った。
先程までの自分と比べたら温かいのかもしれないがやはり少しひやりとした。
ちょっと強引だったかもしれないが、その手を振り払わずに握り返してくれたのでよしとしよう。



それから、二人で歩いているとどこからかまた猫の鳴き声が聞こえてきた。
姿は見えずに「にゃあ」という鳴き声だけ。
一体どこにいるのかな、と姿を求めてわくわくしながらきょろきょろと辺りを窺う。
けれど、見つけられずに鳴き声もそのまま遠ざかり、ついには聞こえなくなってしまった。
盛大に肩を落としてがっかりしていると、隣から遼が話しかけてくる。
「お前は猫派なのか?」
「は?」
何を言っているのかさっぱり分からずぽかんと口が開いてしまう。
(猫派?猫派って……、何?)
その場に立ち止まって瞬きを数回しながら、むぅと考える。
「猫派か犬派かっていう話?」
「猫派」という言葉からはそれしか連想できず、思ったままを尋ねると「あぁ」という素っ気無い返事。
そこでようやく彼の意図が読めてくる。
ずうっと今日は猫のことを考えているので、犬側としては居心地が悪かったのかもしれない。
ただ声からも表情からも怒っている素振りは見えないので、ふとした疑問が口から出ただけのようにも思える。
そうだとしてももしかしたら拗ねているのかもしれない、と考えてみたら、彼らしくも無い一面でなんとも可愛らしいではないか。

「猫と犬のどっちが好きか?っていう二択だったら、私は答えられないな。
だって、一番なのは遼だもん」

そんな甘い言葉を言ってみる。
だってお互いの一番はお互いなんだって思っていて良いんだよね?
その気持ちに勝る「好き」は私の中にはないの。
選択肢はひとつだけ。
それは永遠に変わらない選択肢。


完 初出:2007.12.10


あとがき

一万打記念SSとしての一作目は、翡翠後の遼と珠紀です。
遼を書くのが久しぶりすぎて、いろいろと戸惑いましたがこれは遼になっていますでしょうか?
遼珠のCPは、お互いがお互いを一番強く求めているCPではないかなと思います!
珠紀にとってそうであるように、遼にとっても選択肢はひとつだけ状態といいますか…。
私はといいますと、動物と触れ合いたい今日この頃です。

それでは読んでくださった方、ありがとうございました。